「時習」…恥ずかしながら、初めて知った言葉です(--;
これは単に”学んだことを何度も復習し身に着ける”という意味ではないそうです。
偉大な賢人・哲人「安岡正篤」先生ってこんな人
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安岡先生は「三国志」に触れる時、この「学而時習之」の実践を実感するそうです。
「三国志」を学ぶと、我々が今まで研究してきた神・儒・仏・道の教えを初め、易学など諸々の学問の妙味が、それこそ「論語」の「学而時習之ー学んで之を時習す」の語の通り時習されることになる。
時習は、勉強したことを忘れないために時々思い出して復習する、というような簡単なことではありません。時は”時”ではなくて”その時その時に応じて”ということです。
~(中略)~
同時にそれが活学・活用されて今までの学問の復習・時習になるということが大切です。
平面的な「聞いた知識」ではなく、経験やその時々に活かすことで、その知識が見識→胆識となっていくってことの具体的な示しなのかな。
平面的な「聞いた知識」が⇒経験・新しい体験を通して⇒立体的な「知識・智恵」となるってことのようにも感じますね。
それが”身につく”ということなのでしょう。
学んだことを「その時その時に応じて、活かしていく」自分の経験・体験と結び付けていくことば大事なんですな~やはり「結びの力」か。
古来より日本人の人を測る基準は「人徳」や「人望」だった。
安岡先生もそういった人物に成ることを「歩むべき道」としてしめてくれているが、
それは”他人から評価される為”ではなく、とことん自己と向き合い天命を知り、自らが命を立て、その道を邁進する時に自然と身につき積まれてくモノだと説いてくれている。
現代日本では人を測る基準が「経済的な成功」とか「仕事ができる」とか社会的に器用で賢い生き方をする人が高く評価される傾向にあるような気してますが、
それも実はマスコミやメディアからの偏った情報による印象操作の影響かもしれません。そんな気がする。
日本人の血がやはり「人徳・人望ある仁義誠に生きる人」を求め・評価するし、しているんじゃなかろうか、そう思いたいし、そう思う。
何がいいたいかというと「学ぶべきこと」の選択が大事だよ~ってことっす。
安岡先生の言葉に触れるまで、私はその自覚が薄かったのでね。
”徳慧の学問を学んで之を時温す”
これで、この一語は完成なんじゃないかしらね。
(つづく)