記憶力勝負な教育に飼いならされてきたので
「忘れる」とか…「絶対ダメ」ってイメージがあった私です。
私が尊敬し、勝手に師としている偉人・賢人・哲人「安岡正篤」氏はこんな人
↓
安岡先生は「忘れる」ことには「ありがたい面もある」と教えてくれております。
一体人間に忘れるということがあるのは、いかにも困ったことでもあるが、また実にありがたいことでもある。造化の妙はわがまま勝手な人間の到底窺い知ることのできないものがある。老荘者流はしきりに「忘」の徳を説いているが、肩の凝りを解くものがある。
是非を忘れ恩讐を忘れ、生老病死を忘れる。これ実に衆生の救いでもある。どうにもならないことを忘れるのは幸福だとドイツの諺にもいっているが、東西条理に変りはない。
(『続経世瑣言』)
あーなりほどな、と思えたのは
”是非を忘れ、恩讐を忘れ、生老病死を忘れる。これ実に衆生の救いでもある”
という「忘」の徳(恩恵)の具体的な示しの部分です。
こだわり、執着、すべてを是非(白か黒)で判断し人生を息苦しく感じたり、悲しんだり・怒ったりする気持ち、それに加えて生老病死という不安を生む源泉という心を束縛するものから「忘れる」ことで解放されるというわけだ。
頂いた恩や受けた恩を忘れる事はアカンのやないか?とも思うが、でもその恩に縛られて心の重りと感じるようなら「忘れる」のうが健全なんだろう。
「恩讐を忘れ」の「恩」は自分が他人に善くしたことをいつまでも恩着せがましく心に抱いてないで忘れなさいってのが本意だろうけどね。
自分が他に行なった善行を「恩」として心に抱き続けていると「怨念」になるのかもしれない。その人との縁も「呪い」に化けてしまうのかもしれない。
だいたい人は「過去」に縛られ、苦しみ続けるから
マジで「過去は忘れる」ってか「今の私」に関連付けないで
「今に素で向き合う」ってのが「今を生きる」秘訣なんでしょうね。
忘れることで過去・未練・後悔の呪縛から解放される。
忘れることは自分を含め「赦し」につながり、それが「癒し」となるそうです。
パラリンピックの生みの親であるドクターが言ってた。
『失ったものを数えるな、今あるものに目を向け活かせ』と。
過去は記憶の中にしかないしね。
いつも実在は「今」にしかないものね。
(つづく)