何か嫌なことや困ったことがあると「あいつが悪い」「社会が悪い」「国が悪い」
そんなことをボヤキまくっている人には心に響くものがあるかも。
まーそれって私のことでもあるんですけどね。
「悪い人」「悪の根源」探しちゃうよね。
そんな私の心にグサッと刺さる安岡先生のお言葉が今日紹介するやつっす。
私が尊敬する賢人・偉大な哲人「安岡正篤氏」ってこんな人
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では、心にブッ刺さる安岡先生のお言葉をどうぞ。
一体、人間の存在は本当の自分に反って自分を役立てる、ということの上に立たなければ、空々寂々であります。藤樹先生がことに研鑚された『孟子』の中の名高い一語にも「君主は必ず自ら反る」と言っておる。
まず自らが自らに反る、自分が自分に反る。そこからはじめて本当のせ生が生ずるのです。 (『人間学のすすめ』)
「反る」=かえる
「君主必自反」=君主は必ず自ら反る
何が困った事態、悪いことが起きた時、ミスが発覚した時「犯人探し」⇒「何が悪いのか」「誰が悪いのか」の雰囲気に陥ることってよくある気がする。
そんな時「私は関係ない」とか「自分は悪くない」という自己防衛の気持ちが一番に湧いてきちゃうんだけど…そういえばと思った。
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たぶん、安岡先生が云う
「一体、人間の存在は、本当の自分に反って自分を立てる、ということの上に立たなければ、空々寂々であります」
この一文にある『本当の自分に反って』の示すものはとても深い内容だと思います。
「自ら反る=自己を反省すること、自分を省みて反省する」
しかし、ただの自反ではなく、先生は「君主は必ず自ら反る」を重要な一語としてあげている。そう、我々は個々に目の前の現実の「君主」なんだということだろう。
だから、君主の立場・志・気持ちで、起きたことにたいして
「すべては自分事」として向き合い、自分に至らぬ点はなかったか、自分にもっと最善の行動があったのではないかと省みる時、目の前の現実は「反る=表裏がひっくり返る」のかもしれません。
「誰が悪い」「社会が悪い」「システムが悪い」と外側を責めて、『私は悪くない』と叫んでいると、どんどん外側が自分の敵になっていきますが、
「すべては自分事」としいて「私も悪かった、どうすればよかったんだろう」と一緒に考え省みると、前向きな気持ちで周囲と1つになれるのかもしれません。
自分を「目の前の現実・世界の君主」として、しかも聖君として見つめていき、
「最終的責任は全部自分にある、臣下(他者)は私の手足であり私自身なのだ」と思えた時、この世界は「慈愛しかない」と気付けるのかもしれないなぁ。
私はまだ体感・実感としてはそこまで到達していませんが
安岡先生の言葉を聴いて「そういうことなのかも」と思えるようになった。
「自反」と「君主必自反」をしっかり脳と心に刻んでおこう。
(つづく)