「生」の字に、「命」をつけて「生命」としている、
そこにある意味がわかりますか?
私が尊敬する偉人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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では、本日は重要な「命を知る」の中へ
「生」の字になぜ「命」という字を付けるかというと、われわれの生きるということは、好むと好まざると、欲すると欲せざるにかかわらない、必然であり、絶対的なものです。
「おれはどうして生まれたんだろう」というのはナンセンスです。それは個人の妄想にすぎない。西洋哲学でいうと、アブソルート、先天的、あるいは絶対的なものである。そこでその絶対性、必然性、至上性、それを表すのに「命(めい)」というものを以ってして、生命というのです。
この安岡先生の言葉の意味・意図するところ、わかりましたか?
私はここを理解するのに時間がかかった(^^;
はじめは”「生きること」が必然・絶対なものだから、生れた理由なんてウジウジ考えないで前進しろ!”って意味なのかな?
「生きる」ことが天より与えられた「命」だよ~って示しかと思ってました。
でもね、どうやらそうではないらしいんだよね。
この先に、この安岡先生の言葉に対する解説があって
自分の人生に「絶対性」「至上性」を感じる時、人間は不退転の決意を持つ。
それまではどうしても上司や権力者の言いなりになり、深い自覚もないままに、酔生夢死のごとく人生を浪費してしまうものだ。
ってあるんですよ!
自分で自分の「生」生きていること・生かされていることに
「絶対性」「至上性」を感じて目覚め自覚する時に
「命(めい)」をもって生きるようになり「主体的に生きる」ようになる
ってことじゃないだろうか。
そうでない状態の時=命に目覚める前までは、ただただ「生命=いのち」程度の認識で
社会や周囲に流されるように モブのように「ただ生きてる」状態なんじゃないか、と。
先生の言葉の真意がわかってくると胸に痛みを伴い刺さってくるね。
こうした酔生夢死の如く人生を流され生きている「弱い人間」が
このことに気付く=決然として悟る のは、
”死に直面し追い詰められ、絶体絶命の境地に陥った時”なんですって。
死に直面して、はじめて「生きてる=既に奇跡」だと知るんでしょう。
「生きたい」と心から願う時、生命は本来の輝きと力に目覚めるのかも。
(つづく)