あなたに人生の師・友はいますか?
私が尊敬する賢人・偉人「安岡正篤」氏ってこんな人
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徳慧の学ぶ、命に生きる「正道」を歩むリアルな友達は零の私です。
今に生きる「生身の師」も零っす(;;)
しかし、安岡先生をはじめとして、新渡戸稲造氏の「武士道」、合気道の祖・植芝盛平の「武産合気」などの偉人の書を通して古の偉人に学んでおります。
人生の正道を歩む為に「師友を持つ」ことの重要性が説かれております。
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我々に親のないことは避けられぬ不幸である。しかし、師友のないことは不幸の上に不徳ではあるまいか。(中略)この人生に於いて我々の人格が真に確立し、もはや惑うこともなくなるまでには到底自分の独力で成し得られるものではない。それには我々の天稟があまりにも貧弱で、無力で、下根である。
われわれは常に権威ある人格、品性、気迫、才能に接触し、誘掖され、陶冶されて、はじめてようやく自己を充実し、洗練し、向上させることができる。
(『東洋倫理概論』)
「天稟」とは「天から稟(う)ける」の意で
”生まれ持っての才能や性質、天性”のを指すそうです。
「下根」とは「下方にのびている根・下に隠れて見えない根」の意
仏教用語では「下根=教えを受ける能力・能力が生まれつき劣っていること」だそうです。
天稟を覚醒させるためには下方奥深くに張った根に水をやらねばならないってことだろうか?「私という存在の本質」の内奥深くにとどく「水」となるのが「師からの学び」らしい。師のそばで受ける刺激や感動感銘の体験が「魂ふり」となるのだろう。
しかし、ここで難関は実際に「今生きる師」を見つけ、得ることである。
ご注意いただきたいのはネットで名言・格言っぽいことをドヤ顔でつぶやく「俺流成功者」みたいな人やSNS・メディアを主戦場とする「自称専門家」を容易に師としないこと。安岡先生もいうてますが「有名無力・無名有力」ですぞ~
では、どうやって師を見つければいいのか?
安岡先生は私のように古人の書を「師」として学ぶことも善しとしてくださってます。
私のおすすめは「安岡正篤氏の著書や関連書籍を読むことからはじめる」こと。
ひとり(一つ)尊敬できる「師となる書」を見つければ、その本を読むことで自然と偉人・賢者の横の広がりが見えてきますからね~
あと、もう1つオススメしたいのが「古事記の解読・研究」です。
古事記の中に織り込まれた「神秘の智恵」を解き明かしてゆくこと。
神の名・地名・登場する物の形(形状・象図)に隠された意図を探るのです。
私は今のところ、この研究を通して出会う書を「師・友」としております。
(つづく)