ここからの話は時間に余裕がある時に、じっくりと耳を傾けて欲しいっす。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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「群衆の中で生きる」ことが当たり前の社会で、「個の使命」「個の覚醒」に繋がる とても大事なお話がはじまります。
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「群衆中の個人は単に大勢の中にいるという事実だけで、一種不可抗力なものを感じるようになる。群衆の一員になるという事実だけで、文明の段階をいくつも下ってしまうのである。一人でいるときは恐らく教養があると思われる人が、一度群衆に加わると、本能的な人間・野蛮人と化してしまう」
※これはランスの名高い心理学者 ギュスターヴ・ル・ボンの『群集心理』の一節
このル・ボンの言葉だけでも何度も読んでその真意を心に刻んでおくべきものであるが、この先に示されたことを安岡先生は皆に知ってほしい・考えて欲しいと思っていたのではないだろうか?
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これはフランスの名高い心理学者、ギュスターヴ・ル・ボンの「群集心理」の一節であるが、大衆社会の陥りやすいこの弊害を救う道は民族の歴史的・伝統的精神を喚起する以外にはないと、次のように痛論している。
「民族精神は群衆の動揺を抑制する強力な基盤である。民族精神が強まれば強まるほど、群衆の劣等な性質は弱まる」
(『活学』)
ここで指摘されていることがどういう意味か理解できただろうか?
私は初め混乱して理解できなかった。
民族精神が強まる程により「民族集団=群衆=大衆」としての意識が強くなるんじゃないかと思ったからです。
でも、これは今の「移民政策」(それに伴う混乱)に揺れる各国の状況を当てはめて考えると今に生きる世界中の皆に響く言葉なのではないでしょうか。
自分のことを「大衆の一員」「群衆の中の一人」としか思わぬようになると
大衆・群衆の流れに身を任せ「流されるまま」になってしまい
”大勢の意見”と思える「幻想」にのみ込まれ、いつのまにか「何者でもない」存在になってしまう。在っても無くてもいい「ただの一人」になってしまう。
だから「私は何者であるか」「私はどう考えるか」「私はどう行動するか」ということを大衆の中に在るからこそ常に意識しながら生きねば「私」が私でなくなってしまうということではなかろうか?
その基盤となるのが民族の歴史的・伝統的精神の喚起ということかと。
民族の歴史・伝統を受け継ぎ更なる発展・繁栄の為に「私は何ができるか」「私は何をすべきか」という芯柱をもって生きることが大切なんだという教えと受け取りました。
群衆の中の個人として、無思考で流されるままに生きるのではなく
常に自分で考え選択・決断して命にむかう「道」を自分の足で進んでいきなさいってことかな。
群衆の中の個々人が「無思考・怠惰」に成る程、
操る側の人からすると操作しやすくなるしね。
群衆を導いている人が「善人」や「最善を知る人」であるともいえない世の中ですから。
この話はどんどん深く広く拡大してゆきます(つづく)