「独を抱く」の話しの続きへ
日本の偉大な哲人・安岡先生を知らぬ方はまずこちらをどうそ。
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では、前回の「独を抱く」「人は自己の絶対に徹して、はじめて あらゆる相対に応じることができる」って話の続きへ
安岡先生の教え・言葉・思いを 読者にわかりやすく伝えてくれている
著者:神渡良平氏は 「自己に徹する」重要性をこう説いてくれている。
人間は弱いもので、なかなか独りにはなれない。群衆に紛れて生活する。
するといつしか流されて、ただの生活者に成り下がってしまうものだ。
修行する者たちがしばしば人里を離れて…(続く)
独りを恐れ・不安を抱きながら群衆に紛れ生活するうちに
「群衆に紛れた存在」になってしまうというのだ。
個性も自己の命(己が人生で成すべき事)もなく、
ただただ社会や群衆を形成し・その形を保つための存在に成り下がってしまうのだと。
グサッときた…
これが世に言う「お前の変わりは掃いて捨てる程いる」存在ってことかぁ(グッ)
更にこの本の中で神渡氏は江戸前期の仏教思想家・鈴木正三の言葉を紹介し、
その言葉の解説として「夜空に輝く月と水面に映った無数の月」を例に
個々のものに映っている月を見ると「多」であるように見えるが、その実、月は1つしかない。個々の現象を追求していくと、本体の月という「絶対的存在」にいきつくのだ。こうして相対的であるはずの個々の存在が、絶対的価値を帯びることになる。
(中略)
自己の内面を突きつめていくと、そうした絶対的自分に到達する。
と教えてくれている。
他人に映る自分、他人から評価される自分、それは水面に映った月のようなもので
関わった他人の数だけ 「他者の内の私(他者の認識による私)」が存在するが
それは実体ではない。本物(本質)は「私が認識する私」だけなんじゃないだろうか。
私が認める私=私という存在
ここは絶対に揺らがないものだよね。
ってことは私が私の価値を認めれば、それが私の揺るがぬ存在価値にもなるのね。
相対的な私→絶対的な自分に成る為「自己に徹する」方法として
座禅や瞑想がおすすめだそうです。
五感を停止・思考を停止して「自分の内を視る」と内なる自分と出会い交流できるのかもね。なかなか「無」になれないけど、実践してみます。
(つづく)