我々は社会の中で生きている、「群衆の中の個」としてどう生きるべきか?
大衆社会の陥りやすい弊害を救う道とは?
今回の話しも「群衆の中の個→個の覚醒」に繋がるものです。
安岡正篤氏の教えに関するこちらの本
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を読んでいた中で触れたシュバイツァーの言葉を紹介したい。
多くの方に読んで知ってほしい言葉(教え)です。
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真理より来る精神は、いかなる下界の勢力よりも強いと信じるゆえ、この精神を養うことができれば、人類の将来も期待できる。
倫理的世界人生の肯定は、寛容と希望をそのうちに蔵して、けっして失うことはない。それゆえ悲惨なる現実をそのままあるがまま見ることを、断じて恐れたり、逃避してはならない。
(※アルベルト・シュバイツァー『わが生活と思想』)
真理に至る道は現代よりも「古代」の示しの方が圧倒的に優れている気がする。
現在は人間の欲が肥大した結果なのか、世界経済という強大な魔物(ジャイアント・ビースト)に人が喰われているからなのか 学問の分野でも「倫理なき世界」が広がっている気がする…。
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しかし、経済に食われて潰された「倫理」にしても「真理に至る道」にしてしも
逆にありがたいことに「経済的(金銭的)に無価値」の烙印が押されたおかげで
実はその辺に「だれも興味惹かれないであろうゴミの如く」放置されてる。
そう、気が付いた人は「それら」にいくらでも触れられるし、集めることができるのだ。「現代では無価値」と思われているので この活動は孤独ではあるが邪魔してくる者もいないので探究し放題なのです。
”悲惨なる現実をそのままあるがままに見ること”を恐れたり・避けたりしてはいけない…というが、悲惨なる現実をあるまがままに受け入れ、変えていく力が真理からくる
精神にはあるってことだよね。
この世のものはすべて「生きもの」だから変化し続けているわけだから、
”真理からくる精神は下界のどんな勢力よりも強い”とシュバイツァーのように確信できたら、その力を発揮して”この世の変化の流れ”に作用して「今見えている現実を変えていける」はずってことだよね。
真理からくる精神とは「上界」のものなんだろう。
(つづく)