今回は「群衆の中の個人」の続きっす。
世界中で今起きている「精神的束縛」に対し「どう生きるか」って問題
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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今回は「こちら」の本の中にある『個の覚醒』の中で紹介されていた
アルベルト・シュバイツアーの言葉から色々考えてゆこうと思います。
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かくして我々は新たな中世に入った。一つの共通的な集団的意志によって、思考の自由は無用とされた。それは多くの人が自由な人格としての思考を放棄し、何ごと団体所属者の指導のみに自己を任せたからである。
多くの個人が新たに精神的に独立し、かれらが心霊的に囚われているところの組織団体に対して、権威ある自然の関係を発見する時、はじめて我々は再び精神的自由を獲得するであろう。
※アルベルト・シュバイツァー『文化障害の諸事情』より
本当に「力」あるのは自然だけである。
この世に存在する本当の「力」は宇宙の真理(法則)だけである。
こんな風に私も最近は思ってます。
支配の意図をもつ人間の「誰が」が創った「集団・団体・組織」では、
特殊な世界(その集団に属する人間が創る「幻想現実」)に於いて
歪んだ場の支配力(歪んだマカ)が発生してますが
そもそもがそこに集う人々が「そう思う」から「そうある」だけですからね。
そこには根源的な絶対の力は在りません。
では、シュバイツァーの言葉の続きをどうぞ。
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現代的中世紀よりの解放はヨーロッパ人が かつて成し遂げた解放よりもはるかに困難であろう。その当時なされていた戦いは因襲的に課せられた外的権威の暴力に対するものであった。
今日の戦いは、多くの個人をして、かれら自身のつくった精神的非独立性のなかから脱出せしめることに関するものである。
これ以上に困難な仕事があるだろうか。
(※アルベルト・シュバイツァー「文化障害の諸事情」より)
集団・大衆・社会を意図をもって動かしている人たちがいる。
大衆を動かし、社会の流れ・世界の流れをつくっている人たちがいる。
大衆の中の個々人から思考力を奪い、幻想現実をあたかも「ただ1つの事実」かのように洗脳誘導してコントロールしている人たちがいる。
しかし、そんな中で「個々人の精神的拘束(束縛)」を強固なものにしているのは
結局はその「大衆の中の個人、その各々が自分で精神・思考を拘束し身動きできない状態にしているからだというのだ。
”今日(こんにち)の戦いは、多くの個人をして、かれら自身のつくった精神的非独立性のなかから脱出せしめることに関するものである”
この一文が心を貫いてくる…
多くの個々人が「自分で己を檻に閉じ込めて”人としての本来の生き方”の邪魔をしている」というのだ。なんてこった!?
本来、「私の心」というのは誰にも縛れないものである。
なのに外部からの影響で「自分で自分を無力化している」ということに気が付かぬままに己の自由を奪い続けている(放棄し続けている)という恐ろしい事態に陥ってる。
だから、自分でそこに気が付くことから解放がはじまるんではなかろうか?
”本来、「私の心(人の心)」というのは誰にも縛られないものである”んだから。
まずは自分で自分を縛っている檻(思想・常識・ルール)が何なのかを見つけ出さねば。
(つづく)