「人の心って何ぞや?」という問いに対する明確な答えが示された!?
私が尊敬する賢人・偉人「安岡正篤氏」ってこんな人
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では、我々の「心」その正体に迫る話をどうぞ。
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人間の心というものは、天地・自然が人間を通じて立てたものである。
天地・自然は何億年、何千万年かかって色々な動植物をつくってきて、最後に人間をつくった。その人間が五十万年もかかって、高邁な精神的存在、すなわち心を発達させ、人間らしくなった。
したがって我々が心を持っておるということは、言い換えれば、天地が心を持っておるということだ。我々の心は天地の心だ。天地が発して我々の心となっている。
(『人間学のすすめ』)
「人間は考える葦である」という言葉に通じるものがある。
我々人間とは天地の心のウツシであり、精神的な存在で、生命活動を通じ天と地の気を受けて「感じ・思考する」処に本質があるのではなかろうか。
フランスの哲学者がなぜ人を数ある植物の中で「葦」と例えたかは不明だが、
古事記や日本神話が示すように天と地の間にある地上界は「葦原中津国」と古代日本の智恵も示している。地上界とは「葦が生い茂る原」なのだ。
その中で「人=考える葦」とすると、人間は動物であって最も植物に近い生命なのではなかろうか? 本来は、自然の廻りの中で最も「大地と一体」な存在なのでは?
植物のように光と水と気で生きる能力を備えているんじゃないだろうか。
人間の場合は「天と地の深部からの光と水と気」が必要なんだろうけど。
我々の心というのは「私だけの心」と思えて、実は「天地の心のウツシ」であり
天地の心と常に共鳴しているでしょう。「私だけの心」は心全体の一部だと知ることで天地の心のヒビキ=声を感受できるようになるかもしれないね。
この安岡先生の言葉に対し、神渡氏はこう語る。
人間は人間一個の存在ではない。その背景には数千万年かかって進化してきた動植物がある。(中略)したがって、人間は自分一個の人生に責任をもつだけでなく、万物すべての霊長として行動しなければならない。
このことは民族の生命に対してもいえる。私は無窮なる日本民族の流れの中に活かされている一人である。(中略)つまり、”私”という人間は日本という歴史文化を離れて育つことはできない。
加えて、神渡氏は「民族の存続が自動的に保証されていると思うのは、思い上がりも甚だしい、民族の生命は何の感動ももよおさなくなったとき、消えていく」と語る。
日本人が日本人としての誇りや日本の文化や社会に対する感動が無くなったとき、
日本民族は消えていくというのだ(;;)
もっと簡単に言っちゃえば「日本人が日本の文化・伝統・歴史や社会に興味を亡くした時、日本民族は消えていく」…ってことですよね?
今生きる日本人に古代日本人の智恵や文化を捨てさせようと画策して行動してる人たちがいるんだとしたら、日本人がそこに気付いて皆が「日本について知る(深く探究)」すれば また日本民族の真の発展が訪れるんじゃなかろうか。
そんな思いもあって、このブログでは私なりに調べたり感動した”日本の智恵”に関する話をひとりごとのようにブツブツとつぶやきながら書き続けております。
(祈りもこめて)