「大衆の中の個」であるという現実の中で、私たちはどう生きるべきか?
「知命・立命」よりも先にもっと重要な「根源的な個の覚醒」が説かれております。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏の教えに関する本を愛読中
↓
この中で、安岡氏が「大衆の個」として無思考に流され生きることの危険性を指摘しており”個々人が揺るがない精神をつくりあげていかない限り、明けは来ない”というようなことを語っておられる。
このことに関連してアルベルト・シュバイツァーの言葉が紹介されているのだが、この言葉を是非とも「今」多くの日本人に聴いてほしいと思った。きっと心に響くものがあるはず。
↓
文化の回復は、ある大衆的運動の性格をおびた試みとは何の関係もない。それらの運動は常に外的事件に対する反動に過ぎない。
しかし、文化は多くの個人の中に、現に支配するところの一般思想とは独立に、またそれと対立して、一つの新しい思想が生まれ、それが漸次一般的思想に影響を及ぼして、ついにそれらを決定することによってのみ、再び再建するのである。
ただある種の倫理的運動のみが、我らを非文化から救い出すことができる。その倫理的なものは、ただ個人の中にのみ成立するのである。
それ故に個々人は高邁なる個人的確信に達して、精神的倫理的思想を喚起するという、個人のみが果たし得る任務を再び引き受けなければならないのである。このことが多くの人に起こるのでなければ、何ものも我らを救うことはできない。
(※アルベルト・シュバイツァー『文化の没落と再建』)
民族の精神・民族の伝統・文化の没落は「時代の流れ・社会の流れだからしかたがない」ものではなく、その再建についても「私一人の力ではもうどうにもできない」ものではないと説いてくれているのだ(ここ重要)
”個々人が再び高邁なる個人的確信に達して、精神的倫理的思想を喚起する”ようになるための「鍵」は我々の血と地と智にあるのではなかろうか。
民族精神や民族文化の記憶というのは我々の「血」と「地(国土)」に沁み込んでいるとというよりは「練り込まれている」と私は感じている。
『血が騒ぐ』という表現があるが、我々が先祖・古代日本人が見つけた真理やカムナガラ道に近づいた時、自然と「日本人の血が反応して騒ぐ」んだと思う。
「世の中がこうだから」とか
「社会の流れがこうだから」とか
「みんながこう言ってるから」とか
そういったことで自分の心に湧く想いを無視して「外側の力(圧力)」に成されるがままに生きるのではく、自分の今の想いとの内奥から湧く想いとをぶつけあって、『高邁なる個人的確信に達する』ことを大衆の個たる「私」が成し、また多くの人がそうある時、文化の再建は成されるということだろう。
大勢を動かす力を「私」が持っているかどうかは関係ないのだ。
私は「自分をどうするか」に集中すればいい。
日本を愛し、日本民族・日本文化の存続を願い続ける日本人は今も大勢いる!
あとは個々人が興味をもって日本の伝統・文化・精神を覗く時
「血」と「地」に練り込まれた古代からの日本の「智」と繋がればいいじゃん。
初めはなんか落ち込んだんですが、今は希望しかないっす。
「自分一人ではどうしようもない」と思える、群衆・大衆・社会・世界の姿って実は実体なき幻なのかもしれませんしね。
(つづく)