「学ぶ」ということには四段階のたどるべき段階があるそうです。
自分の「これまでの学び」を見直す好機になるかもしれません。
私が尊敬する賢人・偉人「安岡正篤」氏ってこんな人
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安岡先生が「学びの道」を学記の四焉に照らして説いてくれております。
「学記」の「四焉」とは
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”君子の学におけるや、焉(これ)を蔵し、焉を脩し、焉に息し、焉に游ぶ”
ここで大事なのは「息・游」の域に達することだと安岡先生は語っている。
第一に「蔵」して、学んだことを自分の中にとり込む
まずは素直に、謙虚に学びその教えを自分の中に受け入れるのです。
第二に「脩」して、学び得た人の教えを自分のものとして整理・加工・研磨していく
蔵で自分の中にとり込んだ学びを、自分の経験と融合させ磨いてゆく。
第三に「息」して、刻苦勉励して自分のものとする。
刻苦勉励の学びへの取り組みの中で休息を取る時、自分独自の思想が磨かれ、自分独自の世界が息吹を上げてくるというのです。
「知識」として身についている、というのではなくもはや「呼吸」するように学びと自身が一体化した状態をいうのではないか、と(私の解釈)
第四(最終段階)が「游」、”これに遊ぶ”境地
「游=あそぶ、およぐ」の意であり「さんずい」があるので
優雅に流れる川の水に同調して泳ぎ遊ぶように、心地よい「動」へつなげることを指しているんだろう。たぶん「舞い遊ぶように学びを使いこなして事を成す」ってこと(私の解釈)
安岡先生がいうには、「游」こそが東洋の学問・芸術の最高の境地なんだそうです。
そういえば日本の神様も踊りや音楽好きだよなぁ。
本来「動(行動)」というのは、ただただ現象界に直接大きな変容・作用をもたらすものではなく、それは優美な動き(調和の美の舞)からくるものだってことを指しているのかもしれません。
神の創造も人間の創造も、その根源は「游」からくる生成であり
創造にとりかかっている間は「悦楽」の心地に包まれているのかも。
なるほどなぁ。なんか日本神話が示していること凄く深いよね。
(つづく)