誘惑や脅迫、圧力をかけられることで「本意ではないことを…」
そんな葛藤と後悔が重くのしかかる生き方に陥らぬ為には、
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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社会で生きていくということは、「己を曲げることも多々ある」と思っている。
実際に「そうであった」から。しかし、それは社会的には正しいのかもしれないが、心の奥底では「間違った生き方だろう」ということも薄々感じていたりもする。
まー社会で生きていくって、綺麗ごとじゃないしね…なんて思う私に 安岡先生がこう語りかけてくれた。
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人間は誘惑されたり、脅迫されたりすると、すぐ心ならぬことをもなしてしまう。そこから脱線や堕落がはじまるのだ。道を学ぶ人間は、なにものをもってしても奪うことができないものが根源になければならぬ。これが「為さざる有るなり」だ。富貴をもってしても、貧賤をもってしても、威武をもってしても、なにものをもってしても、奪うことができないものを持っておるということが肝心です。
(「人間学のすすめ」より)
本意ではなく、外圧に負け 心ならぬことをしてしまうと そこから堕落がはじまる、というのだ…道から外れ脱線してしまう、と。
だからこそ「為さざる有る」が大事だと安岡先生は説く。
まず大事なのは「やらない、そういうことはしない」ということをしっかり己の中に持ち、その次に「為すべき有る」を持つのだというのだ。
簡単にいえば「道理に反することはしない」「己の誠に反することはしない」という確固たる精神的支柱を持たねばならない、という教えだろう。
精神的支柱は己の内にあるものなので、他者が物理的に奪うことはできない。
しかし、他からの干渉、圧力によってその支柱が折れたり倒れたりする可能性はある。
だからしっかりとした「確固たる支柱」を持たねばならない、と安岡先生は説いている。
社会に合わせる、周囲に合わせる、そういった生き方が求められているように思えるが私やあなたが「どう生きるか」の決定権は常に「自分」にある。
社会に合わせて、周囲に合わせて、日本人がよく言えば”従順に”、悪く言えば”己の意志なく”生きてきた結果「今の日本社会」があるとしたら…目の前の結果をあなたはどう受け止めますか?
まずは、堂々を正道を往くと決め「為さざる有る」を心に書き出してみることからはじめてみるといいかも。
私は「後悔なく生きる為に、己の誠(心の声)に反することはしない」と書留ました。このことを決めた時、同時に「後悔無く生きるために、己の誠に従って為すべきことを成す」ということも決まったわけですな。
「為さざることを持つ」というのは、そう難しいことえはなく凄く単純・素直なことかも。
(つづく)