日本語で「日・火を-ひ-」といい、「人を-ひと-」という音の示しは
トートやアメンティーの主たちが示すことと重なりますね。
「存在性」の話しをした後、9の主はこう続けております。
⇓
「人は山に縛られし炎なり、されど我らは我らの周期にては常に自由ならん」
ほほ…ってことは主たちとて
本来の自分のサイクルじゃない「この周期(我々の世界)」では
なにか『不自由』があるのですな…
もしかして、、、主たちってその周期の「GOD」なの?
その周期の「すべて」たる存在なわけ?
「Oh,人よ、知れ。上位に延びし諸サイクルに汝が発達せし時は生命それ自身は暗黒にて過ぎゆかん、しかして魂のエッセンスのみ残らん」
諸サイクルの主たちの「諸周期」ってのがどうやら
「我々の周期から上位に延びた世界」のことらしいですよね。
「延びし」って表現なので「繋がってる」と思っていいんだよね?
我々の世界の延長・拡張上にあるんだよね、きっと。
さて、この場面での9の主の言葉で
私が気になった部分を勝手に注出!
⇓
”人は山に縛られし炎なり”
これは…「山=肉体~有形・物質」ととればいいのか?
それとも人も山の相似象であり、山の内に抑え込まれているマグマ~地核を指して
”本質は縛られし炎の方だよ”っていってるのか?
カタカムナ的に「ヤマ」を見れば
”飽和限界(ヤ)まで向かう性質(本能的プログラム)と間(現象化の場)に
縛れれている「ヒの重合(ト)」が人だよ~”ってことになるね。
”生命と魂”
9の主のいい方だと、
生命と魂は別モノってことになりますよね?
我々が上位のサイクルにと発達した時、
我々は「生命」をこのサイクルに捨て
魂のエッセンスのみが上位世界に入って行けるわけですよね?
「生命」とはアマ界限定のプログラムなのかぁ。
「イカツ=電気の極微粒子」が創る生命現象界がアマ界限定だとしたら
上位サイクルは「ヒ」や「ミ」がアマ界とは全く別の創造をしてるのかしら?
暗黒というのは「停止」「動けない」状態を指しているだけかもしれませんね。
それとも禅が示すように「暗黒=無明」で知らないから見えないだけなのかな。
(つづく)