私はカタカムナの解読に挑戦するまで「ことば」をもっと軽く考えていた。
「ことば」は交流ルール・気持ちや考えを表現する手段くらいに考えてた。
しかし、「ことば」が神秘の力を持つってことに
だんだんと気が付き始めておりました。
ちょうどその時、このトートの言葉を聞いたのです。
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「時間とは何ぞや?」というトートの問いに対し
ウナルの住者が答えてくれた。
そのウナルの住者が示した話を受け、
トートはしばらく「時間について熟考する為」その場を離れひとりになったという。
それは、何故かというと
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住者(聖師)の「ことば」、
その「ことばの内」に智恵と神秘への鍵が在ると気づいていたから。
師や先人たちから伝えられ来る「ことば」には
そこに「伝えるべき大事な智恵」が込められているのです。
私はカタカムナの解読に触れるまで
日本神話・日本の神々の御名を「変な名前が多いな」と思っていました。
※無知ゆえの無礼さですのでお許しください
しかし、日本の神々の御名というのは
自然界~この宇宙に働いている「法則」や「力」その作用・カカワリについて
端的に的確に示しているんだなぁと思うようになりました。
神の名として神話として
後世に伝えられていく素晴らしい智恵、先人たちの偉大な知恵が
神の名の音の響きや神話のことばの響きに込められているのです。
しかも「知識や智恵」だけではなく
「音の響きによる現象・潜象への干渉」までも計算されてて…
と、考えるていく中で私はふと思ったのです。
私は今まで「ことば」をちゃんと使えていたのか?
私は今まで「ことば」をちゃんと理解できていたのか?
たぶん答えは「NO」になる。
他者が放った「ことば」も、本で読んだ「ことば」も
ほとんどの場合、その真意にまで理解が及んでいなかったと思い、胸が痛む。
自分が放ったり語った「ことば」も
あまりよく考えず「思いつきのまま」きちんと整え磨く前に
相手に投げて、投げっぱなしのものばかり…だった気がします。
さて、話をトートに戻しまして
ひとり住者の「ことば」を熟考し
時間の神秘を探ったトートは「時間の秘密」に気づいたのです。
(つづく)