合理=理に適う のはずがいつしか意味が狭く偏ったものになってしまったのかも。
今でいう「合理的」って損得勘定に近くなっているし、
どんどんそれが濃くなって「非情」の方に向かっている気もする。
【イライラ社会を生き抜く】ために
柔らかく折れない心を手にすべく始めた武士道修行
教本としているこちらには
⇓
後半部にちゃんと
「義を遂行することは口で言うほど簡単なことではない」
って書いてあった(;;)
さすがですよ、
道徳的な部分を押し付けてはこない武士道
あくまでも自分の良心に従っての
本心からの行ないでないと意味がないと説いてくれてますからね。
だから「義」を行うことが
難しいってこともちゃんと書かれていることに
「やっぱ信頼できるわ」と思った。
まさに四諦八正道と武士道がつながった瞬間や~
ってことで
義を遂行するためのラストスパート講義っす。
現代人の行動判断基準は合理的精神
義を遂行するのが簡単ではない理由
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それは現代社会が相対的で合理的な価値観で覆われているから
多くの人が行動判断基準としているのは合理的精神
その合理的精神は「効率化・効率的・生産性」であることを求める
突き詰めれば「どっちが得か」という相対的な精神
本来の「合理」から離れ
だいぶ経済中心の思考になっているため
今の合理精神は
“数字で比較できる経済的なもの”
には効力を発揮する。
そのかわり数字で比較できないもの
目に見えないもの
は相対的判断ができないので軽んじられる傾向にある。
それは何かと言えば
- 正義
- 優しさや思いやりの心
- 人情(人の情け)
こういったモノでまさにそれらは
「義」「仁」「礼」なのである(;;)
武士道はいわば不合理の精神
現代の合理的精神について触れた後で
「武士道」にはこう書いてある。
だが、武士道における「義」は
普遍的な良心の掟に基づく
絶対的価値観を基準にしているので、
いわば不合理の精神である。
理(ことわり)に合う=道理に合う
という意味では武士道はとても合理的な精神だと私は思います。
ただ、現代の合理的精神が見ているものは
数字で比較できる「効率的、生産的」部分が主なので
そういった相対的な損得を重視するなら
武士道はとんでもなく不合理です。
でも武士道も突き詰めていくと
「正義のためには師も辞さない」という部分があるので
どっちにしても不合理ですね(^^;)
私はまだそこまでの境地にはないので・・生きたい・・可能な限り
損得や欲や他者からの影響など
全てを超えて
自分自身が目指す「義の道」とだけ向き合えた時
生きるということが「そこ」に集中できた時
そこが修行のゴールなのかも…道のりは厳しい。
義を遂行するには鍛え上げられた自律心が必要
じゃあ、義を遂行するにはどうすりゃいいんじゃ?!
ってこたえもちゃんとくれています。
義を遂行するにあたっては、
よほどの自律心が養われていなければ
至難の業ということになる
“よほどの自律心が養われていること”
これが必要条件なのだ。
「自らを律する心」
つまり「かくあるべし」というブレることのない
自分の理想の姿を持ち続けなくては義は遂行できないのです。
逆にいえば
鍛え上げた自律心を持たない人が多いからこそ
今の損得合理主義社会になっているということかも。
はじめから「義」を遂行できる自律心を
オートで備えた人はおないってことでしょう。
「自分には足りない」と自覚できてる時点で
義の道を一歩踏み出せているようです(イェイ!)
【人の道を踏み外さない】
これが自分を律する武器になりそうっす。
損得で損(失敗)をしてもいいけど
義を忘れない生き方を重視っとφ(..)メモメモ
次回が武士道の教本からの学び最終講義です。
あとは日々修行(行動)っす。