「巡り逢う」このことがとても重要なのです。
カタカムナや古代日本語(神代文字・上代語・古代の歌)に触れ、日本語の音のヒビキと構造にもの凄く「緻密な計算と知恵が練り込まれている」ことを知り、今やっと「古事記」に挑み始めた私です。
では、古事記解読の続きへ
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伊耶那岐命 詔りたまはく、「然あらば吾と汝と、是の天之御柱を行き廻り逢ひて、見美斗能麻具波比為む」とのりたまひき。
(「古事記」より)
伊耶那岐命(造化三神の命を受け、成す為に働く神は命・みこと)の言葉に注目!
「然(しか)あらば 吾(あ)と汝(な)と、是(こ)の天之御柱(あめのみはしら)を行き廻り逢ひて、美斗能麻具波比(みとのまぐはひ)為(せ)む」
イザナギ命からイザナミ命への「みとのまぐはひ」のお誘いの言葉です。
「みとのまぐはひ」=二神の結婚・男女の交わりという認識が一般的です。
んで、注目してほしいのはその「みとのまぐはひ」を成すための手順というか行動にあるのです。
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イザナギ・イザナミが「むすばれる」には天之御柱を(お互いに逆方向に)廻り巡り、柱の向こう側で再び「めぐり逢う」ことが必要なのです。
逆の景色を見ながら 進んだ先で「むすび」が成されるのです。
その柱をひとり廻る時に見る景色や経験(感じた事)が相手にとっては「未知」の事となり、そこに「差異」が生まれ、その差異が引き合う「引力」を生むのかもしれません。
私はイザナギ・イザナミはそれぞれに生成の力の象徴だと思っており、その生成の力が聖なる柱を廻り往く時、力の渦(渦の力)が生まれると解釈しております。
「巡り逢う」とは、それぞれに異なる景色・経験を経て出逢った者同士は「未知」の引力によって自然と引かれ合い、その「自分との違い」に惹かれ逢うってことなのかもしれません。
(つづく)