敬と誠は密接に繋がっている。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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安岡先生は『政治家と実践哲学』(書)の中で、
清末の哲人政治家「曾国藩」の人格練磨の工夫や、その言葉に触れている。
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曾国藩は敬の心境を説いて、「清明躬に在り、日の升るが如く」でなければならにとした。道光二十二年、彼が三十二歳のときの在京日記過程十二条は実にこれをもってその第一条としておる。この敬に寄って人ははじめて誠である。儒教では常に誠敬という。
(『政治家と実践哲学』)
「曾国藩」という人は、十五年にわたった「太平天国の乱」から清朝を救った人物なのだそうだ。(文官であり求道者)
そして、安岡氏も認める「至誠の人格者」なのである。
私は曾国藩が言う『精明躬に在り、日の升るが如く』という言葉がよくわからなかった。だから、自分なりに調べてみると、
- 清明(万物が清らかで生き生きした様子)
- 躬・きゅう(自ら、からだ、自分で)
清明とは、万物を清らかで生き生きとした姿にする「浄化の光(禊・祓いの力)」のことを指しており、それは「神明」つまり、この世を照らす神の力ということだろう。
その「清明(神明)の力の源泉が自らのからだ(内)に在る」という。
そのことと「日の升る(のぼる)が如く」が「=」になる意味がまだよくわからないが、それが神が設計したこの世の働きとでもいうのだろうか…
それとも、朝の太陽が夜の闇に覆われた世界を照らし、清らかで生き生きとしたこの世の姿を示し見せてくれるように、我々の内に在る「清明」が我々を覆う闇を祓い・禊、清らかで生き生きとした本来の姿を照らしだしてくれる、ということだろうか。
「敬の心境」は”「清明躬に在り、日が升るが如く」でなければならない”とは?
この我が身の内にある「清明の神霊力」に対する感謝と敬意から自然と発するのが「敬」だということだろうか。
全ての存在のその内に「清明が在る」と実感できたら、自分を含めた全ての存在が「神明なもの」だとわかり「敬」の念が湧くということだろうか。
曾国藩の「敬」とは、「自己を空しくして他を敬す」ものだったそうだ。
それは彼が人格の根底は「至誠」だと信じていたからだと。
安岡が触れた、曾国藩32歳の時の日記には『誠とは欺かぬことであり、その欺かぬとは心に私著がないことである。私著がなければ至虚である。故に天下の至誠とはまた天下の至虚なるものである』と書かれているそうです。
ってことは「至誠=至虚」ってことですよね!
誠に至る=虚(虚界・太始・一元・根源・一なるモノ・造化の始まり)に至る
ってことになる、「誠」がそこに至る鍵だったのかぁ~
自分の内にある「清明」に従い、己の誠に生きる時、我々は「至虚」となるようです。
その為には、静かに座り鎮魂する、それがハジマリ。
(つづく)